TACS History

東京自動車クラブ(TACS)ヒストリー

1967年4月1日 飯田橋のホテルグランドパレスに、
鈴木会長、鈴木T、村井S、堤Y、吉田A、福井M、森川S、鎌居Hが集合した。
東京自動車クラブ(TACS)ができる瞬間である。

今まで赤羽台自動車クラブ(ACC)で活動してきた面々であるが、
よりモータースポーツを広くやって行こうということで、
集まった同志である。

まずJAFに登録する。現在の13012という番号であるが登録クラブではかなり古参である。13は東京に事務局があるという意味で、TACSの前には公認クラブ7、加盟クラブ1と欠番3があるので東京の加盟クラブでは2番目である。

1962年に鈴鹿サーキットが、1965年にはいまは亡き船橋サーキット
(現在 船橋ららぽーと)、1966年には富士スピードウェイがオープンし
その1年後にTACSは結成された。まさに日本のモータースポーツのはじまりのころである。

最初はラリーに参加する人が集まった。その後ジムカーナに参加する人、
が集まり、レースに参加する人も出てきた。

その頃のジムカーナ会場は狭山湖と大磯ロングビーチが主流だった。
まず大磯ロングビーチで日刊スポーツ・TACSジュニアチャンピオンジムカーナを共催開催した。
そのころのジムカーナには浅倉氏のフロンテクーペ(オレンジ)が走っていた。
懐かしい名前では新堀氏、片野兄弟が走っていた。

ラリーはJMRC杯シリーズのTACSクローバーラリーを主催し
PMCSのラリークリサンテーモ、JMCアルペンラリーと並んで好評だった。
当時は珍しい中継点にステージ毎に戻ってサービスが受けられる方式だったので、
クローバーの葉っぱをイメージしてこの名前がつけられた。
クローバーラリーの考案は福井M(ホンダ社長の福井氏の兄)競技長だった。
1971年のクローバーラリーはブルーバードH510で柑本J氏が優勝
1973年のクローバーラリーはフェアレディZで横山B氏が優勝し、
プラモデル(ハセガワ)にもなった。

ジムカーナはその後富士スピードウェイCパドック(現メインゲート)、筑波サーキット駐車場(現Fゲート)茨城中央サーキット、関越スポーツランド、日光スピードパークなど多数で開催された。
そのころは山田仁氏、五味氏、立石氏、稲村氏、宮尾氏、遠藤氏、鈴木E氏、
下村氏、千葉氏、山田K氏、田中I氏、菅野氏、永田氏が走っていた。
当時のラリーの参加者は高杉氏、岡氏、光崎氏、嶋田氏、長谷川氏、寺崎氏だった。
またレースは稲村氏、鎌田氏が走っていた。

1970年に筑波サーキットがオープンした。
これを機会にTACSもレースを主催し始めた。
1976年に第1回クラシックフェスティバルが筑波サーキットで開催された。
当時はまだクラシックカーということばは馴染みがなく、こぞって参加してきたので、
参加台数は400台~450台で、今考えるとどうやってパドック割りしたのか、タイスケはどうしたのか不思議でならない。
1977年には第1回ニューイヤーミーティングをプリンスホテル駐車場で行った。
天気はあいにくの雪で寒かったが、イベントに華を添えた。
1984年には富士ジャンボリーも始まり、1月のニューイヤー、4月のフジ、7月の筑波の
クラシックカーイベントトリオが出揃った。

1988年にJCCAができクラシックカーイベントはTACSと共催となった。

1月のニューイヤーは毎年正月の初顔合わせとして最終日曜日に開催されていて、
白バイ、パトカー、フェアレディSR先導の都内のパレードやお店の出店も多く
好評だった。開催場所も東京プリンスホテル、神宮外苑、明治公園、パシフィコ横浜
お台場特設会場で行われていたが、東京オリンピックの選手村用地になるということで、2019年を最後に惜しまれながら終了した。

4月のフジジャンボリーもやはり国際サーキットでの走行と日本中からのアクセスの良さで好評だったが、これも東京オリンピックの自転車競技のゴールになるということで、
日程が取れにくくなり、2019年を最後に惜しまれながら終了した。

現在は4月、7月、10月の筑波サーキットのクラシックカーフェスティバルが続いている。









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